安堂ロイドとSF ②
2014年11月24日コメント (6)やっと写真もUPしてみました。家の前のツユクサです。
そして、よりによって、HEROのニュースが入ってきた日にこのテーマで書いているという…
でも続きを書きたくて仕方なくて。
しかし、バタバタとバタンキュー(バタバタの後、体力がないので)のくり返しの日々、彼の誕生日に書きたかったブログがここまで伸びたことをお笑いください。
安堂ロイドとSFの騒動を思い起こしても、好意的な意見しか覚えていない。
要項については、公式さんが満たしていることを強調してくれたし、そのほかの批判的な意見はロイドを見ていない、あるいは見ても評価してないのだから、心に引っかかることはなかった。
でもTwitterを検索していて、ひとつふたつ気になるつぶやきがあった。
愛を描いた作品であることを強調した推薦文が多く、ニュースでもそこが取り上げられたせいか、SFマニアと思われる方から、「SFとして新しい未来を示せているかが大事なのであって、愛とか想いとか熱意とかは関係ない」的な意見を見かけたことだ。
ああ、ここがSFマニアとロイドファンを隔てている壁なのかもしれないと感じた。
ロイドファンにしてみればここを突かれると、ぐうの音も出ない。
前回のブログで「私ってSFファンかもしれない」などと書いてしまった私も、なにしろ最近のSFを読んでいないので、何が新しくて何が古臭いのかが判断できないのだ。
この意見が正しいのなら、そこが区別できる一部のマニアしか推薦してはいけないというのも一理ある。
でもSFってそういうものですか?愛とか想いとか添え物に過ぎないですか?
どんなに斬新なアイデアが書かれていても、登場人物の愛や想いがちゃんと伝わってこなければ、小説になる以前の企画書、設計図、プロットに過ぎず、マニアには評価されても、一般読者や視聴者には到底届かないのではないかしら。
それは「虐殺器官」や「ハーモニー」を読んでいても感じる。俄然面白くなるのが、一見無機的に見えていた主人公から強烈な愛や想いを感じ始めた瞬間だからだ。そこから物語が動き出す。
そしてロイドも見ている人にはきちんと届くドラマだった。まず愛や想いがあり(それは麻陽への愛にとどまらず人類愛といってもいい)、そのテーマを伝えるためにSFという壮大な舞台設定が必要であり、その舞台の実現のためにスタッフ、キャストが文字通り骨身を削って完成させた作品なのだ。
その愛や想いがSFという設定の中でどう表現されたかについては、「想いの素粒子」といったセリフや、ラストのロイドの自己犠牲に代表されるように思うけど、結構斬新なんじゃないかなあ。
今日はこれで終わり。
安堂ロイドとSFについては、私の手に余りあるテーマだけど、また書きたくなるかも。
ここまで書いてから、尊敬する先輩ブロガーさんがTwitterでの会話で
「愛?そんなものは性衝動から生まれたバグです」と言い放ったポリス側アンドロイドのセリフを思い出させてくれて、私はポリスクラウドと闘っているようなものかもと気づかされた。
ああ、うえぴはロイドが全否定される言葉まで、予言していたのだ。まさにSF。
やっぱ天才かも。
ロイドをめぐる闘いをここで終わらせたくはない。
舞台をスクリーンを移してまだまだ続きますように。
コメント
私が読んだ意見はそうではありませんでした。
愛や想いは文学には必要だが、SFとして評価されるかどうかは別次元といった趣旨のご意見でした。それはそれでひとつの見識です。
そしてロイドを見たことがあれば、愛や想いというのはセリフの中にも出てくることをご存知かと思います。
ですからロイドを推している方々の多くは「SFという設定で愛を描いている作品」といった推薦文を寄せているのであって、SF大賞のサイトで再読いただければと思います。
SF好きな人でもロイド楽しめると思うんだけどなあ。SFマニアになるとダメなのかなあ。
むしろうえぴにアイデア提供してもらいたいぐらいだよね、映画の。