さて、アイムホームがクライマックスに突入するなか、私は、「ルネ・マグリット展」を鑑賞しに、六本木の国立新美術館に行ってまいりました。
http://www.nact.jp/exhibition_special/2015/magritte2015/index.html
上のページに載っている、白い布で顔をおおった男女がキスをしている絵。
これ今回初めて見たんですが、まさにアイムホームじゃありませんか!!
えっと、このつながりで「アイムホームとシュルレアリズム」というテーマについて語る……なんて芸当が私に出来るわけはありません(汗だく)
ただ、前から好きなんですよね、マグリット。
私は意味がわからないものをわからないまま、「なんじゃ、こりゃあ?」とぼーぜんと眺めるのが好きなんです。
下手に言葉で解釈したくないんです。
でも白い布で顔をおおった男女がキスをしている絵。
これは誰もが理解しやすいような気がしますよね。
恋愛とか夫婦関係って、相手のこと見えてない。
下手したら自分のことも見えてないかもしれない。
さて、本題のアイムホームです。
なんとまだリピできていない!
インパクト強いものを見たときほど脳内が飽和しちゃって、すぐにはリピできない性質なんです。
なので脳内リピで語らせていただきます。
8話は予告通り、疾風怒涛が濃縮されて、これでもか、これでもか!という展開でしたね。
でもそのなかにもコミカルな十三課のシーンはちゃんと入れていたり、心情描写は丁寧で淡々としていて煽りすぎないのが、好感持てます。
7話でお父さんへの怒りを爆発させた久さんは、らしからぬ早口で激しい口調でまくしたて、ブラック寄りのグレー化しつつある雰囲気を漂わせました。
このグレー化はおそらくもうちょっと前から出ていましたよね。
あれ、今の言い方、ブラックっぽくなかった?気のせい?と思わせる感じ。
恐ろしいことに、木村拓哉は白から徐々にグレーへ、そして黒へと振れる演技のグラデーション化をやってのけてたのでは!?と思うのです。
対照的な二役の同時進行の演じ分け。
これだけでも大変だと思うのに、そのわざわざ見せ付けているギャップを徐々に埋めていく?
ここ、わかっていない人たちには、「なーんだ、結局演じ分けられてないじゃん!」と言われる恐れもあるのに、あえて7話まで台本上ではそこに触れていませんでした。
考えてみれば、ホワイト久さんとブラック久さんは完全な別人ではありません。
自分の「アイデンティティ」というものが連続した記憶を保持していることで定義できるのだとしたら、同一とは言いがたいけれど、共有している記憶も、一部蘇った記憶もあります。
実は、黒と白は連続体なのだけど、分断された記憶のために、別人に見える、といったほうがいいのかもしれません。
木村拓哉はこの微妙な久の振れ幅を、白地に薄墨が滲み出すようなグラデーションで表現し、「演技力」をもっと単純なわかりやすい表現だと勘違いしている人たちを無意識のうちに試しているような気がします。
そして9話の久の仮面を見て、相田さんのおっしゃる「アイムホームは実存をめぐるドラマ」の意味がようやくわかり出した気がします。
自分というのは実にあやふやなものです。
他者との関係で「私はこういう役割でこういう性格の人」とやっと定義できているところがあります。
もとから自分があやふやな久さんですから、仮面に見える家族がいる家で暮らしているうちに、自分のことが仮面に見えても、さもありなんということでしょうか。
ひとくちにホームドラマといいますが、ホームドラマとはどんなドラマなのでしょうか?
ホームドラマと聞いて連想するものは、渡鬼? ひとつ屋根の下? さかのぼって岸辺のアルバム?ムー? ミタはホームドラマに入る? 積み木くずしは?
ほんわかした言葉の響きのわりには結構、過激だったり、意外と革新的なドラマも多かったりして。
どんな方向にも変化できるので、実は時代の先端を行くのが、ホームドラマなのかもしれません。
家は居場所であり、家族は人間関係の基本です。
初回、仕事で自信を失った久はこう言います。「でも、僕には家族がいる」
家に帰れば、自分は、夫であり、父であるという確信が持てるはずでした。
しかし黒久さんは自分の居場所である家庭を次々に崩壊または半壊させてしまい、白久さんは今や、というか最初から、自分帰るべき家庭がどちらなのか確信が持てません。
フォロワーさんとの会話の中でも気づかされたのですが、
「ただいま」というやさしいタイトルの「アイムホーム」というドラマは、自分の帰るべき居場所がわからない、現代を象徴するホームドラマとして、ホームドラマの歴史に記憶されていくのかもしれません。
そして8話は、やはりすばるに泣かされましたね!
山口まゆちゃん、思春期の女の子のゆれる気持ちを、よく表現できていたと思います。
ここに来て、初回のすばるは新しいお父さんができるかもしれない状況だったとわかります。
すばるが香に反抗的で、久にも仏頂面だった理由が「それか!」と飲み込めました。
カニクリームコロッケ作りで、すばるがずっと久を慕っていたこともはっきりします。
まあ、ここまででも十分わかりましたけどね(^_^;)
ちゃんと人物の感情がつながってる脚本だなあとつくづく。
実の父ではない設定のせいか、幼い初恋めいた感情も匂わせるすばるの試すような目、ちょっとゾクゾクしました。
ふだんは笑うとなくなっちゃうタイプのお目々なのに、すごい目ヂカラでしたよね、まゆちゃん。
また新しい女優さんの誕生を目にした気がしました。
拓哉くんと共演すると、女性は皆輝いちゃいますね!
また、料理となると自信取り戻してテキパキする久さん(*´艸`*)
肩を震わせて泣くすばるを前に、何もできない自分がいたたまれない。
でもお腹は空いてるだろう。まず料理だ、と思い立って、上着を脱ぐ。
ここ、ベッドシーンより萌えました(*´艸`*)
ここまでの料理シーンを思い起こすと、過去の久さんも、料理を作っている時間は、お母さんに仕込まれていた子どもの頃の幸せで無心な状態に戻れていたのかもしれないと思うのです。
「腕が覚えている」のもあるし、こと料理に関してだけは誰に対しても誠実に作り続けていた。
だから酔って意識飛んだりすると(あと寝起きパターンも)、キッチンにワープしちゃうんですね(*´艸`*)
やっぱ脚本上手いわー
吹石さんの愛人もよかったですね!
ちょっと男の決まり文句とか、ラベンダーのアロマでくつろいでいたとか
うーん、なんでしょ、ベッドシーンはお預けであまり生々しくはないのに、このリアル感。
しかし、黒であろうと白であろうとはたまたグレーであろうと、久さんは罪なお人だなあと。
ヤなヤツでも、いい人でも魅力的なんですよ!
そこは家族や愛人でもギャップ萌えがあるのでしょうか?
また広げすぎて、この分量(今回やや少なめで3000字ぐらいかな)を書く羽目になりました。
それだけ語りたくなるドラマなのですね。
「アイムホーム」最終章は、私は何千文字書けばよいのだろうか…(-_-;)
http://www.nact.jp/exhibition_special/2015/magritte2015/index.html
上のページに載っている、白い布で顔をおおった男女がキスをしている絵。
これ今回初めて見たんですが、まさにアイムホームじゃありませんか!!
えっと、このつながりで「アイムホームとシュルレアリズム」というテーマについて語る……なんて芸当が私に出来るわけはありません(汗だく)
ただ、前から好きなんですよね、マグリット。
私は意味がわからないものをわからないまま、「なんじゃ、こりゃあ?」とぼーぜんと眺めるのが好きなんです。
下手に言葉で解釈したくないんです。
でも白い布で顔をおおった男女がキスをしている絵。
これは誰もが理解しやすいような気がしますよね。
恋愛とか夫婦関係って、相手のこと見えてない。
下手したら自分のことも見えてないかもしれない。
さて、本題のアイムホームです。
なんとまだリピできていない!
インパクト強いものを見たときほど脳内が飽和しちゃって、すぐにはリピできない性質なんです。
なので脳内リピで語らせていただきます。
8話は予告通り、疾風怒涛が濃縮されて、これでもか、これでもか!という展開でしたね。
でもそのなかにもコミカルな十三課のシーンはちゃんと入れていたり、心情描写は丁寧で淡々としていて煽りすぎないのが、好感持てます。
7話でお父さんへの怒りを爆発させた久さんは、らしからぬ早口で激しい口調でまくしたて、ブラック寄りのグレー化しつつある雰囲気を漂わせました。
このグレー化はおそらくもうちょっと前から出ていましたよね。
あれ、今の言い方、ブラックっぽくなかった?気のせい?と思わせる感じ。
恐ろしいことに、木村拓哉は白から徐々にグレーへ、そして黒へと振れる演技のグラデーション化をやってのけてたのでは!?と思うのです。
対照的な二役の同時進行の演じ分け。
これだけでも大変だと思うのに、そのわざわざ見せ付けているギャップを徐々に埋めていく?
ここ、わかっていない人たちには、「なーんだ、結局演じ分けられてないじゃん!」と言われる恐れもあるのに、あえて7話まで台本上ではそこに触れていませんでした。
考えてみれば、ホワイト久さんとブラック久さんは完全な別人ではありません。
自分の「アイデンティティ」というものが連続した記憶を保持していることで定義できるのだとしたら、同一とは言いがたいけれど、共有している記憶も、一部蘇った記憶もあります。
実は、黒と白は連続体なのだけど、分断された記憶のために、別人に見える、といったほうがいいのかもしれません。
木村拓哉はこの微妙な久の振れ幅を、白地に薄墨が滲み出すようなグラデーションで表現し、「演技力」をもっと単純なわかりやすい表現だと勘違いしている人たちを無意識のうちに試しているような気がします。
そして9話の久の仮面を見て、相田さんのおっしゃる「アイムホームは実存をめぐるドラマ」の意味がようやくわかり出した気がします。
自分というのは実にあやふやなものです。
他者との関係で「私はこういう役割でこういう性格の人」とやっと定義できているところがあります。
もとから自分があやふやな久さんですから、仮面に見える家族がいる家で暮らしているうちに、自分のことが仮面に見えても、さもありなんということでしょうか。
ひとくちにホームドラマといいますが、ホームドラマとはどんなドラマなのでしょうか?
ホームドラマと聞いて連想するものは、渡鬼? ひとつ屋根の下? さかのぼって岸辺のアルバム?ムー? ミタはホームドラマに入る? 積み木くずしは?
ほんわかした言葉の響きのわりには結構、過激だったり、意外と革新的なドラマも多かったりして。
どんな方向にも変化できるので、実は時代の先端を行くのが、ホームドラマなのかもしれません。
家は居場所であり、家族は人間関係の基本です。
初回、仕事で自信を失った久はこう言います。「でも、僕には家族がいる」
家に帰れば、自分は、夫であり、父であるという確信が持てるはずでした。
しかし黒久さんは自分の居場所である家庭を次々に崩壊または半壊させてしまい、白久さんは今や、というか最初から、自分帰るべき家庭がどちらなのか確信が持てません。
フォロワーさんとの会話の中でも気づかされたのですが、
「ただいま」というやさしいタイトルの「アイムホーム」というドラマは、自分の帰るべき居場所がわからない、現代を象徴するホームドラマとして、ホームドラマの歴史に記憶されていくのかもしれません。
そして8話は、やはりすばるに泣かされましたね!
山口まゆちゃん、思春期の女の子のゆれる気持ちを、よく表現できていたと思います。
ここに来て、初回のすばるは新しいお父さんができるかもしれない状況だったとわかります。
すばるが香に反抗的で、久にも仏頂面だった理由が「それか!」と飲み込めました。
カニクリームコロッケ作りで、すばるがずっと久を慕っていたこともはっきりします。
まあ、ここまででも十分わかりましたけどね(^_^;)
ちゃんと人物の感情がつながってる脚本だなあとつくづく。
実の父ではない設定のせいか、幼い初恋めいた感情も匂わせるすばるの試すような目、ちょっとゾクゾクしました。
ふだんは笑うとなくなっちゃうタイプのお目々なのに、すごい目ヂカラでしたよね、まゆちゃん。
また新しい女優さんの誕生を目にした気がしました。
拓哉くんと共演すると、女性は皆輝いちゃいますね!
また、料理となると自信取り戻してテキパキする久さん(*´艸`*)
肩を震わせて泣くすばるを前に、何もできない自分がいたたまれない。
でもお腹は空いてるだろう。まず料理だ、と思い立って、上着を脱ぐ。
ここ、ベッドシーンより萌えました(*´艸`*)
ここまでの料理シーンを思い起こすと、過去の久さんも、料理を作っている時間は、お母さんに仕込まれていた子どもの頃の幸せで無心な状態に戻れていたのかもしれないと思うのです。
「腕が覚えている」のもあるし、こと料理に関してだけは誰に対しても誠実に作り続けていた。
だから酔って意識飛んだりすると(あと寝起きパターンも)、キッチンにワープしちゃうんですね(*´艸`*)
やっぱ脚本上手いわー
吹石さんの愛人もよかったですね!
ちょっと男の決まり文句とか、ラベンダーのアロマでくつろいでいたとか
うーん、なんでしょ、ベッドシーンはお預けであまり生々しくはないのに、このリアル感。
しかし、黒であろうと白であろうとはたまたグレーであろうと、久さんは罪なお人だなあと。
ヤなヤツでも、いい人でも魅力的なんですよ!
そこは家族や愛人でもギャップ萌えがあるのでしょうか?
また広げすぎて、この分量(今回やや少なめで3000字ぐらいかな)を書く羽目になりました。
それだけ語りたくなるドラマなのですね。
「アイムホーム」最終章は、私は何千文字書けばよいのだろうか…(-_-;)
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